2017-09-01から1ヶ月間の記事一覧

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

200勝まで到達する投手が、非常に少なくなった。 田中将大は、達成出来るであろうか。 ダルビッシュ有はどうであろうか。 田中将大が東北楽天ゴールデンイーグルスへ入団した時の監督が、野村克也監督であった。 日米通算でもよし、としよう。 田中将大の日…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

捕手登録の当時無名だった飯田哲也を野村克也監督は、内野手→外野手とコンバートした。 その飯田哲也が、守備・走塁の面で球史に残る名外野手となっていった。 野村克也監督時代の後半に入団した宮本慎也も、守備を買われての一軍レギュラー抜擢であったけれ…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

野村克也監督就任時にドラフト2位で入団した古田敦也は、当初打撃力不足で守れる捕手として8番を任せていたけれど次第に実力をつけていった。 三番や五番、ついには四番。 球界を代表する捕手となり、球史に残る名捕手へと成長していった。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

ヤクルトスワローズ就任1年目の野村克也監督が期待した新外国人選手は、力不足で広沢克己に四番を任せた。 ONには及ぶものではないけれど、当面広沢克己が不動の四番となった。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

打力の池山隆寛であったけれど、この選手は遊撃手としても魅せてくれた。 池山隆寛に関しては、本塁打数にかなりもの足りない面もやや感じられ、こと本塁打に関しては、もっと沢山打てても良かったのではないかと思うこともある。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

野村克也監督就任時にドラフト2位で獲得した古田敦也を、シーズン序盤から正捕手へ抜擢した。 古田敦也はその後、球界を代表する名捕手へと成長することになる。 捕手登録で無名だった飯田哲也をコンバート、野村克也監督一年目は内野手(二塁手)、2年目に…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

ヤクルトスワローズの監督に就任した野村克也は、投手陣の整備に力を注いだ。 同時に守備の要となる、捕手にもこだわった。 四番打者はなるべく固定。 俊足で、走塁技術の高い一番打者にもこだわりをみせた。 打撃ももちろんだけれど、守れる選手は重宝した。…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

国鉄スワローズは弱いチームであったため、国鉄時代金田正一は日本シリーズに出場していない。 金田正一が日本シリーズに出場するようになったのは選手生活の晩年、巨人に移籍してからである。 全盛期の金田正一が日本シリーズに出場していたなら、果たして…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

昭和41年のプロ野球日本選手権シリーズ南海ホークス・この年エースとしてシーズン優勝に貢献した渡辺泰輔は、第1・2・3戦と連続先発。 日本シリーズで3試合連続先発は、この渡辺泰輔以来いない。昭和41年のプロ野球日本選手権シリーズ南海ホークス・この…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

巨人の9連覇が始まる昭和40年 ――まだこの頃は、9年も続けて同一チームが連覇を重ねることになるとは誰も思わない時代であったが―― 前年日本一に輝いている日本シリーズの対戦相手の南海ホークス鶴岡一人監督は、またしても巨人に破れ連覇がなくなったこと…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

この頃は、審判の判定も巨人贔屓であったことは否めない。 典型的とも言える例が、あの『円城寺 あれがボールか 秋の空』(詠み人知らず)の、あの巨人対南海の日本シリーズであろう。 これについては、機会があれば後述する。 監督・川上哲治時代の巨人は、も…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

それにしても、川上哲治の監督として日本シリーズ11線負けなしというのも極端な気もする。 監督・川上哲治の初期には、日本シリーズの対戦相手には勝てそうなチャンスも無くはなかったけれど、V9時代になると、巨人はほぼ完璧な戦い方で相手チームは付け入…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

プロ野球は、この 長嶋茂雄と 王貞治 を中心に読売ジャイアンツ(巨人) 中心の時代になって行く。 巨人軍の属する セントラルリーグに人気が集まり、 パシフィックリーグは人気的に大きく水を開けられる形になってしまう。 この時代、南海ホークスには 野村克…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

ファンあってのプロ野球である。 長嶋茂雄の天覧試合でのサヨナラホームランは、プロ野球が大衆へ浸透する劇的なホームランとなった。 プロ野球のその後の隆盛に、長嶋茂雄の活躍は欠かせない――大功労者となった。 記録の面では、 王貞治や 野村克也が上であ…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

プロ野球初期の頃は、エース級投手が先発に、抑えにフル回転するのが普通であった。 しかし、打撃練習法の格段の進歩により、プロの一軍の試合に出場するような選手なら、ある程度の打撃力や打撃技術を身につけている選手が圧倒的に多くなり、また指名打者制…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

野村克也監督が南海ホークスの監督時代、抑えの切り札として起用したのは新人の 佐藤道郎 であった。 ルーキーではあるが、佐藤道郎はその当時の投手陣構成からみて、エース格の力のある投手であった。 その後阪神タイガースのエース 江夏豊 が移籍入団する…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

野村克也監督は、投手分業制を推し進めた先駆者の一人であるが、 例えばヤクルトスワローズ時代の高津臣吾など、力で牛耳るタイプの投手を抑えの切り札として指名したわけではなかった。 高津臣吾はどちらかと言えば、打たせてとるタイプであった。 マウンド…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

野村克也監督の野球は、極めてオーソドックス。 投手を育てるのは、上手であった。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

現役では、 ダルビッシュ有と 田中将大が将来の200勝投手として有望であるが、二人とも米・大リーグへ行っている。 田中将大が東北楽天ゴールデンイーグルスへ入団した時の監督は 野村克也であった。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

最近すっかり少なくなった通算200勝投手。 ドラフト制以降では…鈴木啓示 山田久志 東尾修 村田兆治 のパ・リーグ四天王。 江夏豊 堀内恒夫 平松政次 のセ・リーグ御三家。 北別府学 工藤公康 山本昌広 それに日米通算の 野茂英雄 黒田博樹 野球時代の変貌で…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

1リーグ時代、戦前の優勝は巨人と阪神しか優勝していない。 戦後再開されたプロ野球で、最初に優勝したのが南海である。 選手兼任監督の鶴岡一人が四番を打ち、MVPに輝く。 昭和21年から、 南海 阪神 南海 と優勝が続き、巨人は優勝できないでいた。 そ…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球

プロ野球初期の打者としては、 鶴岡一人は好打者・大打者であるけれど、戦争のため本来全盛期となるべき時代に選手として活躍の場がなかったのが残念である。 川上哲治の時代に最もホームランを打った選手は、 青田昇であるが、それでも現在と比べ、本塁打数…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

日本のプロ野球初期の頃は、ホームランは少なかった。 もちろん、戦前は試合数も少なかった。 召集もあった。 しかし、あの時代において通算安打を2000本以上打った川上哲治にしても、通算本塁打数は少ない。 200本にも満たない。 日本にホームラン時代を到…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

いわゆるアベックホームランこれの一番多いのが、言わずと知れたON 王貞治 長嶋茂雄であるが、 次いで多いのがYK 山本浩二 衣笠祥雄 そして三番目に多いのがNH 野村克也 ケント・ハドリである。 これは、素晴らしい。 ケント・ハドリの在籍期間の短さ…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

V9時代の巨人の三・四番は強力であった。 これだけ長期間に渡り、安定かつ強力な二枚看板を揃えたチームは後にも先にも、この時代の巨人しかない。 西本幸雄監督時代の毎日オリオンズ三番・榎本喜八 四番・山内和弘のミサイル打線は、西本幸雄監督の辞任と…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

南海ホークスの最も強かったのは、鶴岡一人監督時代全般的であるが、初期の『機動力野球』鉄壁・華麗な『100万ドル内野陣』そして、チーム方針を大転換させた南海・『400フィート打線』400フィート打線の中心には、野村克也がいた。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

南海ホークスの投手陣では、戦前から1リーグ時代の 別所毅彦(昭)南海ホークス一筋・通算221勝・昭和40年代以降唯一のシーズン30勝投手 皆川睦雄昭和34年の大々立役者 杉浦忠外国人100勝投手の ジョー・スタンカ鶴岡一人監督前期の左のエース 柚木進元祖大リ…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

南海ホークスは、鶴岡一人監督なくして語れない。 また、もう一人。 監督も務めた、野村克也選手も南海ホークスを語る上で外せない。 南海ホークス24年(実労23年、現役27年・実労26年となるか…)、捕手として、南海400フィート打線の大黒柱・不動の四番として…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

プロ野球の歴史は長い。 今日まで幾多の監督が歴史を作ってきた。 三大監督と言われる鶴岡一人三原脩水原茂 その後の西本幸雄川上哲治 そして野村克也仰木彬 さらには長嶋茂雄王貞治星野仙一原辰徳あたりの名前もあげようか…。 森昌彦落合博満あたりも、まぁ…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

南海ホークスの場合、特に鶴岡一人監督初期・前期の名選手はまだまだ沢山いる。 機動力野球の元祖は、鶴岡・南海である。 野村克也が選手兼任監督となり、周囲の状況や時代も変わり、選手の集め方も変わらざるを得なかった。 門田博光という球史に残る強打者…