2017-07-01から1ヶ月間の記事一覧

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

であるように、野村克也監督も江夏豊投手の扱いには非常に気を配った。 けれど、最初からこの野村克也・江夏豊、二人の信頼関係は大変良好でそれは、時を経ても変わるものではなかった。 江夏豊投手ー野村克也捕手のバッテリーは球史に残る黄金バッテリーで…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

鶴岡一人監督時代、南海ホークス三悪人野村克也 広瀬叔功 杉浦忠 野村克也監督時代、南海ホークス三悪人江本孟紀 門田博光 江夏豊 と、時の監督は呼んだ。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

【あの江夏豊】をリリーフ投手に導き、プロ野球の歴史を変えたのは南海ホークス・野村克也監督である。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

江夏豊という投手は、長いプロ野球の歴史の中でも超一流の投手である。 そんな投手が、あの当時の南海ホークスへ来ることになった。 実は、大ニュースである。 南海ホークスの監督は、野村克也監督。 歴史の新ページが開かれた。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

プロ野球、昭和40年代半ばくらいまでの投手起用は、エース級投手が先発・救援にかかわらず連投することが当たり前の時代であった。 しかし徐々に投手分業制の流れになって行き、野村克也監督もその先駆け的監督の一人であった。 江夏豊は阪神タイガース時代…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

江夏豊を抑えの切り札にした野村克也監督。 プロ野球の新しい時代が始まることになる。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

江夏豊が南海ホークスへやって来たのは、野村克也監督時代の後半のことであった。 超大物投手の移籍である。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

入団当時の門田博光は、俊足・強肩の外野手であった。 ホームランを狙うのは入団当初からであったが、最初はどちらかと言えば中距離打者の印象であった。 一時ではあるが、野村克也監督―ドン・ブレイザー・ヘッドコーチの間で攻撃的二番打者に門田博光を育て…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

南海ホークス・野村克也新監督は選手兼任、不動の四番を打ち、ポジションは捕手。 ほぼ全試合・ほとんどのイニングに出場する、チームの大黒柱であった。 試合になれば、選手としての負担も大きい。 ヘッドコーチに、前年南海ホークスの選手を引退したばかり…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

昭和43年秋に行われたドラフト会議は、ドラフト史上最も豊作のドラフトとして、今なお語り草となっている。 彼等の入団は昭和44年 『花の44年組』 と言われる。 南海ホークスは、飯田徳治監督であったが、法政三羽ガラスのひとり 富田勝を指名した。 田淵幸…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

やがて、やはりそれまでの主力選手が高齢化してくる。 チーム力をあげるため、新戦力を若手の育成とトレードによる補強で行ってゆく。 野村克也監督のトレードも、見事なものがあった。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

昭和43年 鶴岡一人監督時の主な打順は1中堅 広瀬叔功 2二塁 ドン・ブレイザー 3右翼 小泉恒美 4捕手 野村克也 5左翼 堀込基明 6三塁 国貞泰汎 7一塁 リチャード・マーチン・キーオ 8遊撃 小池兼司 のような感じだったろうか…。 一年、間を置いて昭和…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

かつて驚異のV9を達成した読売巨人軍は、戦力的にバランスがとれていた。 野村克也・南海ホークス監督も、打線のバランスには配慮していた。 一番に俊足選手を配し、二番打者は進塁打や自ら得点圏に進める選手。 三番は長打力と四番の前にチャンスを作る。…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

投手陣では、絶対的エースはいなかった。 2年前31勝と抜群の働きをした皆川睦雄はベテランながら主軸を担う投手編成であった。 同じく2年前18勝と開花した元祖大リーガー・村上雅則は貴重な左投手ではあったが中継ぎ投手。 南海ホークス黄金時代を作った大…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

南海ホークス・野村克也新監督兼選手の1年目。 若手の西岡三四郎が開幕投手となり、先発ローテーションの中心となった。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

投手陣の整備は急務であった。 ドラフト1位ルーキーの佐藤道郎を抑えの切り札として起用した、野村克也監督であった。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

野村克也新監督兼選手には、まず四番・捕手でチームの大黒柱の野村克也自身が健在であった。 野村克也監督兼選手の一年目には、入団2年目の富田勝、この年ドラフト2位で新入団の門田博光が在籍していた。 新外国人選手のクラレンス・ジョーンズもいた。 ベ…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

野村克也監督の南海ホークス時代は、まず長期政権であった前監督・鶴岡一人監督色を野村克也監督色に塗り替える作業に多く尽力する必要があった。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

南海ホークス・野村克也選手は、いずれは同球団の監督になるであろうと言われていた。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

野村克也監督の南海ホークス時代は、 長期政権の鶴岡一人監督から、ひとり監督を挟んで首脳がバトンタッチされた。 野村克也選手兼任監督の一年目、ドラフト2位で門田博光が入団してきた。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

プロ野球もドラフト制度が実施され数年の歳月を経ると、各球団の戦力が均等化され、特定の球団が数年にも渡り連覇を続けることが少なくなった。 かつて、長嶋茂雄・王貞治を中心とした読売巨人軍のV9なとは、今の時代余程のことがない限り凌駕するのは難し…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

鶴岡一人監督は南海ホークス一筋、23年間の監督生活であった。 野村克也監督は、南海ホークス・ヤクルトスワローズ・阪神タイガース・東北楽天ゴールデンイーグルスで24年の監督生活となった。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

ドラフト制度前破格の契約金で南海ホークスに入団した渡辺泰輔は、昭和41年の日本シリーズ対巨人戦、第1・2・3戦に連続先発。 第2戦では完投勝利をあげている。。 このシリーズで渡辺泰輔は、かつての稲尾和久や杉浦忠などの大エース並みの登板をした。 …

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

就任1年目にして強力ミサイル打線の破壊力などもあって、大毎オリオンズをリーグ優勝に導いた西本幸雄監督ではあるけれど、オフには監督を辞している。 その後、古い歴史を誇りながら優勝経験のない阪急ブレーブスの監督となり、チームを一から作り上げる。…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

鶴岡一人監督は、南海ホークス一筋で選手・監督として過ごした。 1リーグ時代に優勝は2回あり、二リーグ制以降は9回の優勝を誇る。 その内日本シリーズでは、巨人と8回対戦があり、それ以外阪神タイガースと1度対戦があった。 パシフィックリーグ一筋と…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

一・二・三番打者に俊足選手を揃え、四・五番の長打で得点を重ねる野球を始めたのは、南海ホークス・鶴岡一人監督である。 プロ野球にファーム組織を初めて作ったのも鶴岡一人監督時代の南海ホークスである。 幅広い人脈を生かし、全国各地に今日のスカウト…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

南海ホークス・鶴岡一人監督はプロ野球最多勝利監督である。 作戦は極めてオーソドックスなものが多く、セオリー重視でチーム強化方針とともに、まさに王道を行く野球であった。 それとともに、常に先を見据えた球団作りをやっていた監督である。 野村克也監…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

プロ野球においても、優勝を狙うチームは打線もさることながら投手力はより重要である。 これは、時代により大きく違う。 かつて投手陣はプロ野球であっても、絶対的エースを中心に、一部の主力だけでシーズンを賄える時代もあった。 エースの連投に次ぐ連投…

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

鶴岡一人監督時代の後半『400フィート打線』の核弾頭には俊足・好打の広瀬叔功がいた。 また、V9時代の巨人には、赤い手袋・柴田勲という一番打者がいた。 広瀬叔功が走って野村克也が打つ―――が南海の勝ちパターンであった。

後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、監督

かつて九年連続日本一という空前にして、あるいは今後も破られる可能性がほとんどない大記録を打ち立てた読売ジャイアンツの場合、長嶋茂雄王貞治という球史に残る大打者が同時に2人、しかもかなり長期間揃っていたことが大きい。 さらにこの2人は、長期戦…