後世に伝え残したい記憶〜西鉄ライオンズ・稲尾和久
投手としての稲尾和久は、ボールは速かった。
しかし、コントロールがなかった。
入学した高校の野球部は、全国的にはもちろん無名。
稲尾和久も全くの無名選手で、注目を集めることもなかった。
地元の新聞社の一部が、別府緑丘高校の稲尾和久、コントロールは悪いがボールは速い。
この投手にストライクが入れば、面白いかも知れない――くらいの記事があったことがあるという。
当然、甲子園とも無縁であったのだが。
そんな全国的にも注目もされない一無名選手に、たった一つだけあるプロ野球球団が着目していた。
現在と違い、スカウトなどという職業もない時代――
独自の幅広い人脈で、各地の情報を集めていた、
(当時のことであるから)
遠路はるばる大阪から、大分県の田舎までやって来て、
稲尾和久という投手に注目していた。
有望選手を発掘したい南海の動きに対して、初めて大分の隣県の西鉄ライオンズが、稲尾和久の名前を知った。
南海と西鉄は、ライバル球団である。
ライバル球団・南海に獲られたくない――
というのが、当初の目的であったフシがある。
高卒後は家業を継がせ、プロ野球に入団するなど考えてもいなかった父親は当然の如く反対したのであるが、
プロ球団が2球団も勧誘に来たことに驚き、全く無視する訳にもいかなくなった。
プロ野球で成功するなどと思ってもいない父親。
プロ野球はまだ、一般には職業野球と呼ばれ、世間の認知も現在と比べ低いものであった。
3年やってダメなら帰って来て、家業を継がせる――
プロで成功すると思っていない父親は、それならば自宅に近い西鉄が良いだろう――
との思いから、最初に稲尾和久投手に注目した南海より、西鉄に入団することを承諾。
後に球史に燦然と輝く大投手になる
稲尾和久のプロ入りが決定した。