後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、南海ホークス最良の日

南海ホークス3連勝で迎えた第4戦は雨で1日順延となったのですが、これもドーム球場のなかった時代の勝敗のアヤと言えるのでしょうか…。


前年(昭和33年)、西鉄対巨人のシリーズも巨人3連勝後雨で1日順延となったあと、西鉄稲尾和久の連投に次ぐ連投で4連勝。


奇跡的な逆転日本一になり『神様仏様稲尾様』と言われたことを考えると、まだ勝敗の行方はわからない、巨人は南海に相性が良いこともありますし。



本来行われるべき第4戦の先発は杉浦の予定ではなかった。


杉浦投手の指の皮は、まだ回復していなかった。


中止の翌日朝、鶴岡監督は、杉浦投手に尋ねた。


鶴岡『どや、スギ。いけるか?』

鶴岡監督は、杉浦投手の指の状態を知らない。


ようやく瘡蓋が被り、出血の止まった杉浦投手は

『いきます。』


4年前は、3勝1敗・第5戦もリードという状況からの逆転負け。


それより、さらに有利な状態であるが、鶴岡監督、そして南海ナインは、それほどの優位さは感じてはいなかった。


しかし、今回は杉浦がいる!


この試合も杉浦投手は指の皮がめくれ、出血。


血染めのボールを野村捕手が拭いながら返球しました。


そんな状態の4連投でありながら、杉浦投手は見事完封。


同一チームの引き分けも挟まない4連勝は、この時点で南海が初であり、勝利投手は全て杉浦忠でした。


遂に遂に、遂に!

南海ホークスは、宿敵・巨人を破り日本一に。



戦後再開されたプロ野球で、各球団食料事情や生活環境等も悪く、選手も多くが復員していないなどの中、
鶴岡監督と先妻は、骨身を削り選手の練習はもとより、
食料に至るまで面倒をみて、ホークスを常勝球団へ導いた。


鶴岡監督は、その2年前に亡くなった先妻の遺影を抱き御堂筋をパレードする。


何としても巨人に勝つまでは…
と当時病床にあったオーナーも歓喜する。


昭和34年10月31日、晴天の大阪市内で行われたパレードに難波のファンが溜飲をさげた。


先頭車に乗る鶴岡一人監督。


2台目の車に最大の立役者・杉浦忠投手と、血染めのボールを拭き取り返し続けた・野村克也捕手。


後世に語り継がれる

『涙の御堂筋パレード


である。


宿敵・巨人を破り難波に凱旋した南海ナインをファンは、盛大に迎えた。



南海ホークス最良の日』


昭和34年は、栄光の南海ホークスの歴史に刻まれる


南海ホークス最良の年』


となった。