後世に伝え残したいプロ野球の記憶・南海最後の優勝
昭和48(1973)年は、南海ホークス最後の優勝の年となりました。
この年からパ・リーグで、人気振興策もあり約10年ほどに渡って実施された前・後期制。
前・後期のそれぞれの優勝チームがプレーオフで対戦。
その年の優勝と日本シリーズ出場チームを決めるという制度です。
次第にいろいろな問題も出て、約10年ほどで元の1シーズン制に戻ったのですが、実施当初は非常に盛り上った制度でした。
(以下年代は元号で記します)
前期優勝・南海。
後期優勝は阪急。
昭和48年は、前後十数年に渡る
阪急ブレーブスの黄金時代の真っ只中
この頃の阪急は、他球団と比べても突出した、日本プロ野球史上屈指の強豪チームでした。
監督は名将・西本幸雄。
(因みにですが、西本監督は阪急監督就任5年目で同チーム初優勝、近鉄監督就任6年目で近鉄を初優勝に導いています)
この頃南海はまだチーム作りの段階であるのに対し、阪急はこれ以降もパ・リーグの王者に君臨し続けた時代で、両チーム力の差・戦力差は歴然、阪急絶対的優位の状況でした。
シーズン前の解説者連の予想は、優勝の本命・阪急、対抗・近鉄が大勢で、南海優勝を予想する声は少なかった。
シーズンが始まると優勝候補チームの調子が上がらない中、間隙を衝いて投手ローテーションをキッチリ守り続けた南海が前期優勝。
後期は、流石に実力を発揮した阪急が優勝。
よく言われることですが
後期、阪急ー南海の対戦成績は阪急の12勝1分。
南海は後期、阪急に一度も勝てなかった。
5回線・3勝先勝チーム優勝のプレーオフ。
本来の実力差などから予想は、当然阪急圧倒的優位となります。
しかし、ヘッドコーチにブレイザーを配し、『シンキング・ベースボール(考える野球=後に野村・ID野球と言われる)』を推進する知将・野村選手兼任監督は随所に西本監督、あるいは世間を驚かすような采配を見せるのです。
特に投手起用と継投策は当時の戦力をフル活用した、見事な投手リレーでした。
短期決戦の第一戦の先発が、当時チーム内3番手の西岡三四郎。
この試合継投策で南海が先勝したあと、第二戦も南海は早めに投手交代するものの阪急の試合運びと打力が優り、阪急勝利で1勝1敗。
第三戦。
南海はエース・江本孟紀、渾身の力投で完投。
再び南海先行。
ここまでの戦い、投打に走力も含め阪急の戦力が上の中、南海は善戦していると見るのが一般的で、プレーオフを盛り上げたという印象が妥当なところでした。
第四戦。
流石に阪急の打線が爆発、阪急勝利で2勝2敗となり、最終戦は実力通り阪急勝利が大方の見方という状況でした。
しかし、第五戦の南海、野村ーブレイザーコンビは球史に残る見事な継投を 魅 せるのです。