後世に伝え残したい記憶〜プロ野球、南海ホークス・藤原満

一軍出場当初は遊撃手であったが、富田勝の移籍に伴い三塁手へコンバートされる。


野村監督発案のつちのこバットと呼ばれる太いバットを使用して、ゴロやライナーで野手の間を抜くバッティングを会得、現在も俊足の打者がこれを採り入れており、この打法の先駆者と言って良い。


南海が優勝した昭和48年頃は『八番・三塁手』がほぼ定位置であったが、やがて当時の一番打者・島野育夫の移籍もあり、俊足を生かし『一番・三塁手』として定着する。


二番を打つ、新井昌宏との一・二番コンビもこの頃の南海の不動の一・二番となっていた。


盗塁数も多く年間50盗塁したこともあったが、当時は阪急・福本豊が年間100盗塁もしていた時代だったので、タイトルには届かなかった。


首位打者も狙えるシーズンもあったけれど、これは本当にあと一歩届かなく主要タイトルこそなかったが、野村監督時代後半から、広瀬叔功監督〜ドン・ブレイザー監督時代にかけての不動の一番打者としてチームを牽引した。


藤原が一番打者に定着した昭和50年の南海打線(上位)は


一番(三)藤原満
二番(中)新井昌宏
三番(右)門田博光
四番(捕)野村克也
五番(左)ロリッチ
……


といった感じであった。


藤原満もまた、南海100万ドル内野陣の流れを汲む球団史に残る活躍をした選手である。