後世に伝え残したいプロ野球人、不滅の最多勝監督・鶴岡一人〜?@〜

長い歴史のあるプロ野球の中で、後世に伝え残したい人が数多くいます。

時代背景も違うので、例えばプロ野球創成期(創生期)と21世紀にもなった現在、最近とは比較も非常に難しく、多少の個人的主観等もあろうかと思いますが、少しでも興味のある方、是非目を通して頂ければ幸いです。

後世に是非残したいプロ野球人――

第一回は不滅の最多勝監督・
鶴岡一人

(なお文中、敬称を略すこともあります)


『鶴岡監督を語ることは南海を語ることであり、南海を語ることは鶴岡監督を語ることである。』


監督通算勝利1773勝、3000試合近く指揮をとりながら勝率.609!
南海ホークス一筋23年(選手専任時代を含めると実質24年)、プロ野球屈指の名監督、大監督。


まだ、日本にプロ野球というものが誕生して間もない昭和14(1939)年、これも誕生間もない南海ホークスへ入団。
(南海は初期の頃、グレートリング、他…など名称が変わったこともあったのですが、同一チームで経営母体も同じことから、ここでは全て南海ホークスと記させて頂きます。ご了承下さい)

(なお鶴岡氏も一時、山本一人と名乗った時期もありますが、ここでは全て、鶴岡一人と統一させて頂きます。ご了承下さい)


当時、プロ野球より人気があり、日本球界最高レベルの東京六大学、(法政)の花形スター。

長打力と華麗な守備を兼ね備え、人気も注目度も非常に高い実力派選手。

その選手が大卒即プロ野球入りしたことは、大変驚かれました。

当時、職業野球と称されたプロ野球は、社会的地位も現在と比べ殆どなく、世間の認知も非常に低い時代でした。

因みに大卒から社会人を経てプロ入りした選手はそれまで何人かいたものの、
大卒即プロ野球入りは、現在のNPBで鶴岡氏が最初の選手です。


当時の評価は、後のミスタープロ野球長嶋茂雄の入団時以上――

と言う表現で、ご理解頂けるか、と思います。


日本のプロ野球自体が創生期で、尚且つ南海ホークスプロ野球参入間もない頃とはいえ、入団一年目から主将。


チーム中心選手として活躍し、本塁打王そして新人王。

人気と期待に違わぬ(たがわぬ)活躍で周囲の注目を集めましたが、入団二年目は試合に出ることなく召集、戦争が終わるまで選手としの全盛期を送る時期には、野球生活が出来ませんでした。


戦後昭和21年、
(ここでも年代表記は日本の元号で統一させて頂きます。ご了承お願いします)

プロ野球が再開されると鶴岡氏は、監督兼選手――四番・三塁――として復帰します。(実質入団2年目)

鶴岡監督は、7年選手兼任監督として、チームの中心に位置するのですが、以下、
【鶴岡監督】
と表記することに致します。


日本プロ野球、戦後最初の優勝は、鶴岡監督率いる南海ホークス


戦前のプロ野球は、巨人と阪神しか優勝していないのですが、戦後最初の優勝は南海ホークス

鶴岡監督は監督兼四番としてMVP。


ここから、同一チーム実質連続23年の監督生活が始まります。


23年の監督生活中、優勝11回、Aクラス実に22回。


僅かに監督生活最晩年、Bクラス(4位)をたった一度経験したのみ。

二リーグ制以降のの19年で、
優勝9回。
2位9回。
その2位中、首位と1ゲーム差以内5回。


殆ど毎年優勝を争っていました。


プロ野球1位タイ記録の球団連勝記録も、常勝・鶴岡南海の栄光の軌跡です。
(もう1チームは、西本監督の大毎。)


日本プロ野球史上、間違いなく最高の布陣の一つと言える
『南海・百万ドル内野陣』


機動力野球の先駆者。


チーム作りの方針を一転させた
『南海400フィート打線』




今日の近代野球に繋がる、他球団に先駆けたファーム組織の創設、
スカウト制度のない時代、広い人脈を生かした私設スカウトとも言うべき人材による各地の新人選手の発掘・育成、
そしてこれも他球団に先駆けた、と言うよりあるいは世界に先駆けたスコアラー制度の確立・活用(後述)

(当時肩書はないけれど)実質的GM(ゼネラルマネージャー)の草分け。



随所に今日の球団運営の基礎となる数々の功績を残した、と言えようかと思います。


昭和34年日本シリーズ、大エース・杉浦忠投手を擁して
遂に遂に、遂に宿敵・巨人に引き分けも挟まない無傷の4連勝で日本一に!

同年10月31日
晴天の大阪市内で行われたパレードは、諸々の事情から
『涙の御堂筋パレード』として、後世に語り継がれています。


『人が2倍練習した3倍やれ。3倍練習したら4倍やれ。グラウンドには銭が落ちている。』


大金字塔は今なお、燦然と輝きを忘れることはありません。